ラ・コローナ・ディ・デリツィエ(歓喜の王冠)
王 とその宮廷が政務や時には気晴らしのために滞在した優雅な王宮や館。トリノの周辺地域に築かれたそれら14 のバロック建築を結んだ環が、1997 年にユネスコ文化遺産に登録されたこのラ・コローナ・ディ・デリツィエです。トリノ市内の建築物はあえて除外し、この都市を囲むように環を描いたこの「王 冠」の出発点は、モンカリエーリの王宮です。トリノ市街を見下ろす丘の上に堂々とした姿を見せるこの建物は1400 年代に建てられたものですが、その後カステッラモンテ家のカルロとアメデオ、そしてフィリッポ・ユヴァッラとベネデット・アルフィエーリの手によって大幅 に改築されています。
最も興味深いのは、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の居室(鏡のように磨き上げられたトイレや布告の間を含む)、そしてマリア・アデライデ王妃の寝室でしょう。
モンカリエーリからストゥピニージに向かうと、まっすぐ続く国道の果てに劇的な威容を現すのが、ヴィットリオ・アメデオ二世が趣味のハンティングの拠点と して広く深い森の中に築かせた館、パラッツィーナ・ディ・カッチャです。ただし今日、森は姿を消しており周囲に当時の景観は残っていません。ユヴァッラに とって最初の作品となったこの館は、楕円形の中央部分とそこからX 字型に延びる4つの翼部から構成されています。東翼と西翼は、この館が狩りの拠点としての機能を失い、サヴォイア王家の夏の別荘となった時に増築されたも のです。館内にある家具調度博物館は、この館で使われていた家具調度類に加え、モンカリエーリ城、ヴェナーリア宮から運ばれた品々を収蔵しています。その 中には、指物師ピエトロ・ピッフェッティや木彫家ジュゼッペ・マリア・ボンザニーゴの作品も含まれています。
この館を装飾するために雇われた画家は少なくありません。ジュゼッペとドメニコのヴァレリアーニ兄弟(中央広間「ダイアナの勝利」)、カルロ・アンドレ ア・ヴァン・ルー(王妃の寝室「ダイアナの休息」)、ジョヴァンニ・バッティスタ・クロサート(王妃の次の間「イフィジェニアの犠牲」)、ヴィットリオ・ アメデオ・チニャローリ(侍従の間「狩りの場面」)など。四周に壁を巡らせ、長い通りによって区画された庭園は、フランス人造園家ミシェル・ベナールに よって1740 年に作られたものです。
第3の訪問地はリヴォリ城。丘陵に建つ荘園の館として中世にはすでに存在していましたが、トリノを首都に定めたサヴォイア家のエマヌエーレ・フィルベルト 公が購入した後、大幅な増改築を受けました。何度か改築が行われた後、城はフィリッポ・ユヴァッラの手に委ねられましたが(1718 年)、彼の野心的な構想は部分的にしか実現されずに終わりました。その後19 世紀末からは長い間放置されていましたが、1979 年に建築家アンドレア・ブルーノの手で修復が行われて現在の姿となりました。この修復は本来の歴史的建築物を再現しながら、内部には最新の技術と構造体が 使われており(例えば「展望バルコニー」や「宙釣りされた階段」など)、併設された近代・現代美術館の展示内容と絶妙な調和を見せています。
リヴォリを後にして環状道路を走るとヴェナーリア・レアーレの町に着きます。ここには「ピエモンテのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれるヴェナーリア宮がありま す。トリノ県を出て南のクネオ県に向かうと、知名度が低い隠された宝石が点在しています。ブラのポッレンツォ城は14 世紀末に造られましたが、1830 年ごろにカルロ・アルベルト公の命によってネオゴシック様式に大改修されました。ヴァルカソットの王宮は、10 世紀に修道院として建てられ、17 世紀、18 世紀にフランチェスコ・ガッロとベルナルド・ヴィットーネ(ファサードはこの人の作品)の手で大幅な改築を受けました。18 世紀末にナポレオン軍によって占拠され、1803 年には所有者のカルトジオ修道会が解散を命じられたことで、この建物は民間人の手に渡ることになります。これをサヴォイア家が1837 年に手に入れ、城塞と王宮の機能を付加して現在の原形ができあがりました。カルロ・アルベルト王はここを夏の居城とし、その後を継いだヴィットリオ・エマ ヌエーレ二世は、しばしば狩りの拠点として利用しました。その後、ウンベルト一世によって売却され、現在に至っています。深い森の中に立つ館は、中央部分 と左右に展開する2つの翼部からなっています。
EU、イタリア文化省、ピエモンテ州文化局によって進められたマンドリア城公園の修復作業終了に伴って、ここに国際的な観光・文化拠点が完成しました。 2007 年秋に、このイタリア有数のバロック建築が一般公開され、世界中から400 以上もサヴォイア家にまつわる美術作品を集めた、「ヨーロッパを代表する王家の芸術、戦争、そして絢爛:1500 年代から1700 年代のサヴォイア家」という展覧会が行われ、同時にピーター・グリーナウェイによるインスタレーション「王宮を再び満たす」も展示されました。
2007 年6 月10 日、ヴェナーリア・レアーレ王宮の庭園が一般公開されて、ヨーロッパで初めての歴史公園を訪ねることができるようになりました。8 ヘクタールもの敷地には、17 世紀の「ヘラクレスの噴水」と「ディアナの神殿」がジュゼッペ・ペノーネが構想した10 の現代美術作品と混在しています。この庭園はコンサートなどのイベントやガイドツアーの舞台となっています。
サクリモンティ(聖なる山々)
サ クリ・モンティとは、16世紀から17世紀にかけて建てられた多数の礼拝堂などの宗教施設で、キリスト教信仰の様々な目的のために作られました。それら は、形式上の、あるいは宗教的な意味だけでなく、美しさや徳や快適性も併せ持っており、その結果、丘や林や湖などの自然環境や風景に溶け込んでいます。さ らに多くの重要な芸術的遺産(フレスコ画や彫像など)も残されています。こうした理由から、2003年にユネスコはサクリ・モンティを世界遺産に認定しま した。像や絵画やフレスコ画を通じて聖なる生活の日常や神秘を我々に語ってくれる一連の礼拝堂は、その居心地の良い雰囲気と相まって、それぞれの建物一つ 一つを特徴づけています。また、風景に溶け込んだ建物の貴重な例でもあるサクリ・モンティは、信者と芸術愛好家たちの大切な出会いの場も提供しました。以 下は個々の建造物の詳細です。
- 王宮
ピエモンテ州のサヴォイア家の住居の中で最も重要で権力と王朝のシンボル。街の中心ピアッツァ・カステッロに位置します。1865年までサヴォイア家の公 爵、サルデニア王国の王、イタリア初代の王らをもてなしました。内部は観覧可能で17世紀からの装飾品で飾られています。宮殿の後ろには、17世紀後半、 ヴェルサイユ宮殿も手がけた造園家アンドレ・ル・ノートルによる庭園があり池や小道が広がり、その後拡大され彫像、花壇、噴水などで装飾されました。
- マダーマ宮殿
王宮の横にあるサヴォイア家の公爵夫人の館(名前の由来)で、その多面的構造が長い歴史を感じさせます。
長い歴史の間、著しい変化を受けました:ローマ人によって町の門として建設され、その後要塞に変わり、さらに中庭と角に4つの円筒形の塔のある四角い城に 外観が変わりました。そして建築家フィリッポ・ユヴァッラによって正面に堂々たる2つの装飾をほどこした階段がつけられました。王宮美術館と王国最初の上 院室として使われ、1943年から宮殿は古代美術館となっています。
- カリニャーノ宮殿
町の中心にあるバロック様式の宮殿で、カルロ・アルベルトとヴィットリオ・エマヌエーレが生まれ、イタリア初の議会が行われたところです。
サヴォイア-カリニャーノ家のフィリッポ・エマヌエーレの要請により、建築家グアリーノ・グアリーニ(サクラ・シンドネ礼拝堂も建築する)によって建てられました。 1938年から宮殿は、国立イタリア国家統一運動博物館となっています。
- バレンティーノ城
ポー川沿いの美しいヴァレンティーノ公園の中にあります。ヴィットリオ・アメデオ一世と結婚したクリスティーナ・ディ・フランチャのお気に入りの住居で、フランスの要素とイタリアの要素が混ざる特異な建築です。
1500年後半からサヴォイア家の所有となりました。1630年から1660年まで、一部が増築されポー川を見下ろすエレガントな建物になりました。
- 王妃の館
洞窟や噴水のある美しい庭園に囲まれた住居で、ヴィットリオ・アメデオ二世の妻、王妃アンナ・マリア・ドルレアンが住んでいたことから名前がつき、王妃の お気に入りの住居でした。1615年に二人の偉大な建築家フィリッポ・ユヴァッラとアメデオ・ディ・カステッラモンテにより建設されました。第二次世界大 戦の爆撃によって大きく破壊され、長い間置き去りにされていましたが、長い修復の後、最近ようやく一般に開放されました。
- ストゥピニージ狩猟宮殿
トリノの南西、ニケリーノ市ストゥピニージに位置し、このエレガントな狩猟の館は、ヴィットリオ・アメデオ二世の要請によりサヴォイア家の権力の象徴とし て、1729年にフィリッポ・ユヴァッラによって建設されました。王と宮廷の人々が狩猟の前と後に行う宴のために建てられ、後に夏の離宮となりました。宮 殿には、ピエモンテの優れた芸術家や職人の手による古い芸術家具が保存されています。
- ヴェナリーア王宮
ヴェナリーア王宮は、ピエモンテにある宮殿のなかで一番大きな建物で、フランスのヴェルサイユ宮殿に匹敵します。
この壮大な建物は、1600年中頃カルロ・エマヌエーレ二世の要請で建てられ、城、庭園、村までつくり、王の栄華を誇示するものでした。1700年初めか らヴェナリーア王宮は荒廃と様々な変化に会います:ナポレオンの時代、王宮は兵舎となり、庭園は武器を置くために壊されました。ここ数十年、王宮は大規模 な修復を行い再び昔と同じ美しさを取り戻し、一般に公開されています。
- リーヴォリ城
トリノ市とリヴォリ市の間に位置し、1000年の中世の城の上にエマヌエレ・フィルベルトの住居にするために再建されました。1984年から現代美術館となり、常設コレクションのほか、定期の展示会も行っています。
- マンドリア城
ヴィットリオ・アメデオ二世の要請で、1400年にサヴォイア家の狩猟の予備施設として建築家ユヴァッラによって建てられ、狩猟や騎兵隊に使う馬を飼育ました。
今日、1800年代中頃にヴィットリオ・エマヌエーレ二世によって手直しされた作業場と国王の住居を訪問することができます。周辺は6500ヘクタール以上の森が広がり昔からの植物が残っています。
- アリエ城
中世の城、1764年にサヴォイア家の所有となりました。ナポレオンの侵略後置き去りにされていましたが、カルロ・フェリーチェの要請でゴヴォーネ城と共 に休日を過ごすための城として1800年代に再び復興しました。300以上の部屋が家具などで豊かに装飾されています。広い英国風、イタリア風の庭園に囲 まれ、入り口には1700年代の像がある美しい噴水があります。
- モンカリエリ城
時代は1200年に遡り、1400年中頃にサヴォイア家の所有となりました。1600年に偉大な建築家らによって再建が始まり、1800年中頃終わりました。装飾された内部を見ることができます。現在建物の一部がカラビニエーリ(国家憲兵)になっています。
- ラッコニージ城
昔の要塞。サルッツォの公爵の所有でした。1605年にサヴォイア家の所有となり、豪華な王宮に変わりました。城の後ろにはトリノの王宮の庭園も手がけた フランスの造園家アンドレ・ル・ノートルによる噴水、彫像などで飾られた広大な庭園があります。400年の間常に人が住み、公式イベントや公式訪問を受け 入れ1904年には、ウンベルト二世が生まれました。
- ポッレンツォ城
城のオリジナルはローマ時代にまで遡ります。1832年にカルロ・アルベルトの強い要望により大規模に改装されました。周りの荒れた土地を開墾し、製品の 質を確保するため王はここにぶどう園とワイナリーのある最初の農業協会を設立しました。城と接続してスタッファルダ修道院から運ばれた1500年代の貴重 な木製の聖歌隊席があるサン・ヴィットーレ教会があります。
- ゴヴォーネ城
ゴヴォーネ城は、王カルロ・フェリーチェによって、アリエ城とともに夏をすごす別荘として選ばれました。1600年代後半に建築家グアリーノ・グアリーニ によって再建されました。正面はヴェナリーア王宮から来た彫刻で飾られた豪華な階段があり、内部は 1800年代のフレスコ画で飾られています。城はイギリス様式の庭に囲まれ、ヴェナリーア王宮から来た彫像などで飾られています。
- ヴァルカゾット王宮
建物は10世紀から12世紀の間にカルトージオ修道院の拠点として建てられました。何度も火災にあい大きな損害を受けましたが、18世紀に広範囲が修復されました。
ナポレオンの撤廃によりカルトージオ修道院は、民間に売却されました; 1837年、カルロ・アルベルトが城を買い取り、一部を再構築し城としての外観を強調しました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は、狩猟の予備施設とし てこの城によく通いました。この建物は、中央部分と両側に翼のように突き出た部分からなります。外観の壮大さとは対照的にインテリアは地味で私邸として使 われたことがことが伺えます。
- クレアのサクロ・モンテ
モンフェラートの丘に建つ、聖母マリア信仰の聖地の修道院の、院長だったコスタンティーノ・マッシーノにより、1589年から建造が始まりました。当初は 聖母マリアの生涯に捧げられていたこれらの礼拝堂群は、ある教会の前から始まって頂上の“天国の礼拝堂”まで続く、かなり勾配の急な巡礼ルートに沿ってあ りました。
- オローパのサクロ・モンテ
広大でまるで舞台装置のような建物群が、聖地を取り囲んで建てられており、聖なる乙女マリアを祭り、オローパにまつわる宗教エピソードを記念した19の礼拝堂をもって完成しました。金箔で覆われ13世紀にも遡る宝石の数々を身につけた『黒衣の聖母マリア』の像は必見です。
- ヴァラッロのサクロ・モンテ
サクリ・モンティの中で最古のもので、この建立は1491年に遡ります。最初の礼拝堂“キリストの聖墓”は、聖地エルサレムにある本物と全く同じように作 られました。それから25年の間に、パレスチナの各聖地を表現する絵画や像で飾られた21もの礼拝堂が建てられました。建物も像もフレスコ画も全て、土地 の風習や経済状況に沿った技術と材料を用いて作られました。周囲をめぐる壁が15世紀半ばに作られ、その壁の内側は人の手が入った公園となり、一方、外側 の森は今でも自然のまま保たれています。
- オルタのサクロ・モンテ
16世紀から18世紀にかけて建てられた、21の礼拝堂を持つ宗教施設。
フレスコ画やテラコッタに残された図像が、サン・フランチェスコの生涯の重要なエピソードを語 っています。
- カルヴァーリオのサクロ・モンテ
カルヴァーリオのサクロ・モンテの宗教施設群がたつ、マッタレッラの丘には、古い歴史があります。1656年の四旬節のこと、ドモドッソラの修道院から やってきた二人のカプチン派修道士が、キリストへの愛の証に、カルヴァーリオのサクロ・モンテを建立しようと申し出たのです。2年後、聖十字架のサントゥ アリオの建設が始まり、翌年、十字架の道行のスタート地点に大きな門が作られましたが、1800年代に取り壊されてしまいました。その後、礼拝堂や恩寵の 聖母マリアの祈祷所や、ロレートの聖家などが建てられました。
- ギッファの三位一体のサクロ・モンテ
このサクロ・モンテは、海抜360mの高さからマッジョー レ湖を見下ろす、素晴らしい場所に位置しています。未完成のバロック様式の建物群ですが、ボッ ロメオ家風とオルタのサクロ・モンテの建築様式を踏襲したものです。最古の中心的な部分には三位 一体を祭ったサントゥアリオがありますが、これは12-13世紀頃まで遡る古い祈祷所の外壁の形に 沿って作られたもので、その後何度も修復の手が加えられました。カルジャーゴ山の斜面には200 ヘクタールの自然保護区が広がり、それを横切る数多くの小道に沿って、空積みした石塀や面白い 形の小さな祠が見られます。
- ベルモンテのサクロ・モンテ
この、フランシスコ修道会特有の清貧をモットーとするサクロ・モンテは、カナヴェーゼ平原を見下ろす高台にそびえています。11世紀頃には修道院だったも のが一度サントゥアーリオになり、また修道院に戻ってから、最終的には1712年にサクロ・モンテになりました。13の礼拝堂は、その一つ一つがヴィア・ クルチス(十字架への道)に沿って配されています。
このサクロ・モンテは一人のフランシスコ派修道士の呼びかけで作られたのですが、建設にあたって
は土地の芸術家や職人が、信仰の証として、無料労働に呼び集められました。